僕たちは皆何かに憑かれている 〜『百鬼夜行 陽』(京極夏彦/文藝春秋)〜
- 作者: 京極夏彦
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2012/03/19
- メディア: 単行本
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待望の京極夏彦新刊。
百鬼夜行シリーズの各登場人物のサイドストーリーが語られる短編集。
と、百鬼夜行シリーズ前作からずいぶんと時間が経っていて
誰この人となってしまったのですが、一つ一つ短編の怪談として十分に楽しむ事をできる作品。
前作『百鬼夜行 陰』も含め、このサイドストーリーは
「妖怪」に『憑かれてしまった』人たちの物語です。
この物語における「妖怪」について少し語ろうと思います。
「この世には不思議なことなど何もないのだよ」
この台詞を放つ京極堂にかかれば「憑き物」は落とされてしまう訳ですが、
このサイドストーリーでは「憑き物」は落とされません。
そうであるが故に、怪談として成立しています。
上記の京極堂で最も有名な台詞において、重要なのは「この世」と限定しているところだと僕は思っています。
「この世」とは「客観的な物理的な世界」です。
この世界に起こることはすべて物理的な現象であり、説明が可能です。
たとえば極めて珍しい滅多に起こらないこと、10年に1回しか起きないこと、100000回に1回しか起こらないことであっても
それは10年に1度は起こることであり、100000回に1回は起きることなわけで
物理的に証明は可能です。
そこに不思議、証明できない事はありません。
しかし、僕たちはその物理的な世界を認知する「主観的な世界」を生きています。
「主観的な世界」は自分の認識の仕方によって、事象は大きく変化します。
「客観的な物理的な世界」で起きた事の理屈、法則を知らなければ、
また自分の認識によって、「客観的な物理的な世界」にはないものさえあることになる。
「不思議」な事がいっぱいな世界です。
「判らないさ。僕は、君がどんな風に世間を見ているかも判らないよ」
頭の中は覗けないからねと中禅寺は云った。
(「目競/584P」)
そして、各個人が認識しなければ「主観的な世界」は生まれず
上記台詞が示すように僕たちは各個人がどんな風に世界を認識しているかを知りません。
その認識のあり方は各個人によって形作られています。
個人の身体、そしてこれまでの過去の記憶によって築かれる認識のあり方。
それが「彼岸(=生きる社会で肯定されない/認められないあり方)」に誘うものである時、「妖怪」となる。
僕はそう思います。
個人の認識をなす要素なんていくらでもあって、反社会的な要素は誰だって持っているはずで
僕たちは皆少なからず「妖怪」に憑かれています。
ただその「妖怪」は普段意識されないし、
「妖怪」であることを認識されていません。
この短編においても各章には「妖怪」の名前がつけられています。
しかし、各個人は自分は何かに「とらわれている」けれども、それが「妖怪」だとは思っていません。
「憑き物落し」の初めが「妖怪」を断定することにあるように、
何かに憑かれている、とらわれている
そのものが何か、その名前が何か、
それが分かった時点で「憑き物」はほぼ落とされているといっていいと思います。
(ただし正しい落し方をしなければ、より憑かれてしまう結果となり
今回の短編では「蛇帯」がそれに当たります」)
今回の短編は「憑き物」が落とされない
本人たちは何に自分が憑かれているか判らないままに
その認識にとらわれ、彼岸を見てしまう怪談です。
そして実は彼岸は大変魅力的です。それは今いる世界とは相容れない世界ですが、
上記の台詞のあるように彼岸に行ってしまえば「幸せ」な世界が待っています。
僕たちは誰でも僕たちは皆何かに憑かれているそれ故に、その彼岸の持つ魅力に引き寄せられる。
だからこそ 「怪談」に惹かれるのだと思います。
京極ファン、怪談好きなら必見の一冊です。
そして最後に
「鵺の碑」はよ!!(切実)