「生きにくい」世の中を生きるための補助線 怪異としての小説 4/30 京極夏彦講演会@精華大学

「あやかし(怪異)はいかにして創られるのか ―怪異と文芸のはざま―」レポ


先日4/30 16時半〜 @精華大学 京極先生が講演会をされるということで聞きに行ってきました。



京都の大学だーと自転車で行ってみたら京都の北端で偉い目にあったとかそんな事は個人的事情はさておき、
参加者はだいたい200〜300人
大学の講演会のため、若い人が多かったですが、男女比トントンくらい
かなり広い年齢層の人が参加されていて、京極人気の幅広さを感じてました。



たまたま座った位置が講演会始まる前の京極先生の待機席の隣だったのでたいそう緊張してました。(これがあの噂の手袋かと始終わくわく)



テーマは「あやかし(怪異)はいかにして創られるのか ―怪異と文芸のはざま―」。


講演会全体の感想を先に述べると
京極堂の一人語りをずっと聞いてる感じ」と。
百鬼夜行シリーズの京極堂の語りが楽しめる人なら100%楽しめる内容。


ただあの語りそのままなのですごくまどろっこしい。。。
論旨を丁寧に追っていくので、最終的に結論に至る流れは納得出来るのだけれど
中々着地点にたどり着かないので、話が見えづらい、内容がまとめづらい。
随所に挿入されるエピソードの面白さで人を惹きつけ、伏線が各所に張られて、最終的に結論へ収束していく構成のうまさは流石です。


以下、大筋の構成を簡単に箇条書き形式で中身まとめてみたいと思います。
(細かいエピソードもとても面白いのですが、長くなりすぎるため省略)


-不思議とは何か
「この世の中に不思議なことなどなにもない」
 →科学分からない事はたくさんある
 →しかしそれは「分からないこと」であって「不思議」ではない
→だが、人間は分からないことを不思議に思ってしまう
 起きたことは起こること=人間が認識しなければ不思議はない


-なぜ人は不思議に思いたがるのか
 「不思議」=「誤った認識」
 例)幽霊←現実には存在しない =「怪異」
 けれど「いて欲しい」から幽霊を見る


-言葉の発明
 人間の時間認識≠生物の時間認識
 動物=パターンで認識→経過=物体の変化
  例)忠犬ハチ公 駅に行くのは餌がもらえるから

 
 人間=量として時間をとらえる
  本質的には「いま」しかない
  ないものである「過去」と「未来」を発明し 時間軸を作る
  →「ないもの」をあたかも「ある」ように考える
  そうすることで生きやすく


 人間:デジタル化の獲得
  デジタル=離散した数でとらえる 数量化 細かく切断する(NOT アナログ=連続)
 「言葉」というデジタルを発明し、名前を付けることで物事を明確化
  →存在しないものに名前を付けるないものをあたかもあるように扱うように
  例)生と死
  生を30CMの定規と仮定→死とは終端
  本来は対になるものではない
  but 言葉が出来た故に対にならなくてはならない=生にたいしてのボリュームを死も持たなければいけない
  そうして出来たのが「死後の世界」(ないもの)
 現実(=あるもの)を生きやすくするための補助線として「非現実」(=ないもの)


-怪異と小説
 目に見えないものはない現実ではない→言葉でそのいくつかが「怪異」
  例)幽霊 UMA
 人間の言葉の発明が生んだのが「怪異」


-言葉と現実
 「不立文字」=言葉は何も現実を言い表さない
  現実→人間の頭をとおして 言葉と結びつく
  →言葉は多義的になる
  例)カバを想像する→みんなの「カバ」は違う だがそれはカバ
  
  言葉は常に多義的=100%つたわらない


-小説と作家  言葉は常に多義的=小説100%の誤読
  「そんなつもりで書いたんじゃない」「こういうつもりでかいた」
   →みんな受け取り方はちがう
    例)本当はギャグのつもりなのにみんな泣く


  伝えたいことなんて伝わらない
   →なら、多義的に色んな受け取り方が出来る文章を書くか
  書きたいものはかかない(伝わらないから)
  頼まれたもの(=うれるものby編集者)を書く
  ストーリーなんてどうでもいい 文体 単語にこだわる
   「ストーリーなんて分からなかったけど、すごく面白かった」が最高


  「行間をよむ」 「紙背を読む」→そんなものはない
   小説をよむ→自分の中に自分だけの物語が出来る
         現実にはないものを読む ないものを感じ取る
  その言葉を作り上げる→紙に書き付けるのが作家

  
  言葉という「不思議」→小説は全て「怪異」 「怪談」
   →作り上げる小説家は全員怪しい


-妖怪作家として
 京極自身 ミステリ? 怪談作家?→妖怪小説家名乗る
 ただし本の中に妖怪は出てこない
 

 妖怪=ドーナツの穴
  妖怪を知ろうとすると民族学、歴史、文芸いろいろと知らなければいけない
  but それは妖怪の「周辺」(≠本質)
 妖怪とはドーナツの穴 実際には「ないもの」


 行間や紙背=アナログなもの
 妖怪は説明した途端にデジタル→説明すると逃げていく
 周辺を書くことで読んだ人の中に妖怪を立ち上げる→妖怪作家


-文芸と怪異
 妖怪と言葉には密接な関わり→研究の際には言葉を収集する
 妖怪 現象に名前がつけられる


 例)ほほなで 塗り壁
 起きた現象→名前→幻想→形までも作られる
 逆に「言葉」(ないもの)が「現象」(あるもの)を規定していく
 これは妖怪だけではない
 どんな言葉、小説でも同じ


 文字→言葉→認識
 小説は この世のものではない=あの世のもの を扱う
 →文芸とはこれ全て「怪異」
 物語とは現実の幽霊
  文章になれば幻想が現実を規定
  どこまでが嘘でどこまでが現実なのか 説明できないものを説明する


-小説と現実
 妄想(ないもの)と現実(あるもの)の案分を間違えてはいけない
  現実に怪異を見るよりも小説の中に怪異を見る方が健全


 面白くない小説なんてない
 どんな小説でも面白いと思う人がいるからこの世に出ている(作者/編集者とか)
 面白くない→自分に楽しめるだけの能力がない
  好き嫌いは少ない方がいい→人生楽しめる
 例)シベリア超特急
  面白ささっぱりわからない
  繰り替えし見ていたある時 面白さに気づく


 生きにくい「現実」(あるもの)
 →生きやすくするための補助線が小説=怪談



以下は個人的感想です

まず京極先生が小説の「プロ」であるということ。
「小説なんて誤読しかない」という前提に立ちながらも
「生きるための補助線」=現実を生きやすくするための小説を書くことに腐心している事が伝わってきたように思う。


質疑応答の中で
「なぜ京極先生は小説においてレイアウトにこだわるのですか」
という問いに対して
「読者へのプレゼンテーションであり、それも含めて小説」
といった応答にも、それは現れていたと思う。


そして何よりいささかなりとも本読みとして
「生きるための補助線としての怪異=小説」という考えは非常に同意出来た。
現実を生きるため、豊かに生きるための補助線としての「小説」が何よりもすきなんだと思う。


久しぶりに百鬼夜行シリーズが一から読み直したくなりました。


いやぁ、いい講演会でした。

僕たちは皆何かに憑かれている  〜『百鬼夜行 陽』(京極夏彦/文藝春秋)〜

定本 百鬼夜行 陽

定本 百鬼夜行 陽

待望の京極夏彦新刊。


百鬼夜行シリーズの各登場人物のサイドストーリーが語られる短編集。
と、百鬼夜行シリーズ前作からずいぶんと時間が経っていて
誰この人となってしまったのですが、一つ一つ短編の怪談として十分に楽しむ事をできる作品。


前作『百鬼夜行 陰』も含め、このサイドストーリーは
「妖怪」に『憑かれてしまった』人たちの物語です。


この物語における「妖怪」について少し語ろうと思います。


「この世には不思議なことなど何もないのだよ」
この台詞を放つ京極堂にかかれば「憑き物」は落とされてしまう訳ですが、
このサイドストーリーでは「憑き物」は落とされません。
そうであるが故に、怪談として成立しています。


上記の京極堂で最も有名な台詞において、重要なのは「この世」と限定しているところだと僕は思っています。
「この世」とは「客観的な物理的な世界」です。
この世界に起こることはすべて物理的な現象であり、説明が可能です。
たとえば極めて珍しい滅多に起こらないこと、10年に1回しか起きないこと、100000回に1回しか起こらないことであっても
それは10年に1度は起こることであり、100000回に1回は起きることなわけで
物理的に証明は可能です。
そこに不思議、証明できない事はありません。



しかし、僕たちはその物理的な世界を認知する「主観的な世界」を生きています。
「主観的な世界」は自分の認識の仕方によって、事象は大きく変化します。
「客観的な物理的な世界」で起きた事の理屈、法則を知らなければ、
また自分の認識によって、「客観的な物理的な世界」にはないものさえあることになる。


「不思議」な事がいっぱいな世界です。

「判らないさ。僕は、君がどんな風に世間を見ているかも判らないよ」
頭の中は覗けないからねと中禅寺は云った。
(「目競/584P」)


そして、各個人が認識しなければ「主観的な世界」は生まれず
上記台詞が示すように僕たちは各個人がどんな風に世界を認識しているかを知りません。


その認識のあり方は各個人によって形作られています。
個人の身体、そしてこれまでの過去の記憶によって築かれる認識のあり方。


それが「彼岸(=生きる社会で肯定されない/認められないあり方)」に誘うものである時、「妖怪」となる。
僕はそう思います。


個人の認識をなす要素なんていくらでもあって、反社会的な要素は誰だって持っているはずで
僕たちは皆少なからず「妖怪」に憑かれています。


ただその「妖怪」は普段意識されないし、
「妖怪」であることを認識されていません。


この短編においても各章には「妖怪」の名前がつけられています。
しかし、各個人は自分は何かに「とらわれている」けれども、それが「妖怪」だとは思っていません。


「憑き物落し」の初めが「妖怪」を断定することにあるように、
何かに憑かれている、とらわれている
そのものが何か、その名前が何か、
それが分かった時点で「憑き物」はほぼ落とされているといっていいと思います。
(ただし正しい落し方をしなければ、より憑かれてしまう結果となり
 今回の短編では「蛇帯」がそれに当たります」)


今回の短編は「憑き物」が落とされない
本人たちは何に自分が憑かれているか判らないままに
その認識にとらわれ、彼岸を見てしまう怪談です。

「それはそうだろうよ。幸せになることは簡単なことなんだ」「人を辞めてしまえばいいのさ」(中禅寺秋彦魍魎の匣


そして実は彼岸は大変魅力的です。それは今いる世界とは相容れない世界ですが、
上記の台詞のあるように彼岸に行ってしまえば「幸せ」な世界が待っています。

僕たちは誰でも僕たちは皆何かに憑かれているそれ故に、その彼岸の持つ魅力に引き寄せられる。
だからこそ 「怪談」に惹かれるのだと思います。


京極ファン、怪談好きなら必見の一冊です。


そして最後に
「鵺の碑」はよ!!(切実)

限りなくミステリでありえないほどSF 〜『外天楼』( 石黒正数/講談社  KCデラックス)〜

外天楼 (KCデラックス)

外天楼 (KCデラックス)

題名は今はやりのやつを思いっきりパクってみました。



久々にやられた!!、心を持って行かれた!!という本。
オフ会の時に人から譲っていただいて読む。
評判が高いのは知っていたけれど、内容を全然知らずに読んで実に正解だったと思う。


もしこれを読んでいるあなたがミステリもしくはSFを好きだというのなら
ここから先を読まずにとりあえずこの本を読んで欲しい。
以下はネタバレはないけれども
こんな書評を見て、先入観を持って読むよりかは絶対におもしろいと思う。


以下Amazonから簡単なあらすじ。

外天楼と呼ばれる建物にまつわるヘンな人々。エロ本を探す少年がいて、宇宙刑事がいて、ロボットがいて、殺人事件が起こって……? 謎を秘めた姉弟を追い、刑事・桜庭冴子は自分勝手な捜査を開始する。“迷”推理が解き明かすのは、外天楼に隠された驚愕の真実……!? 奇妙にねじれて、愉快に切ない――石黒正数が描く不思議系ミステリ!!

この本の何が良いのか。
まずミステリとしての出来。
あとあと見てみれば連載されていたのはメフィストってそらミステリとしても手が抜けんわって思う。
コメディなのだけど、しっかりミステリしている。
そして随所に挟まれる小ネタ。


個人的なツボは
第四話「面倒な館」
最後の落ちはミステリクラスタは受けること間違いないと思う。



そしてSFとしての設定。
絵柄と序盤のコメディっぷりに油断していると、そこに襲いかかるSF設定の波
そして怒濤の展開。
後半のもっていき方に押されて一気読み間違いなし。



最後に連作という形式をうまく使った作品であるということ。
マンガはその形式上短編の連作になることが多いのだけど、その形式をうまく利用して
一つの物語として昇華させて、物語としての完成度は極めて高いと思う。



最後まで読んで、二度読み 三度読みして
そして一番最初のページをめくってみてあぁそうだったかと納得させられる作品。

良い読書でした。

SF、ミステリ、マンガどれかを愛するのであれば是非とも読んでほしい本。ほんまおすすめ。

幻想小説とミステリ 〜『奇談蒐集家』(太田忠司/創元推理文庫)〜

奇談蒐集家 (創元推理文庫)

奇談蒐集家 (創元推理文庫)

“求む奇談!”新聞の片隅に載った募集広告を目にして、「strawberry hill」を訪れた老若男女が披露する不思議な体験談

酒場で披露される奇談を解き明かす安楽椅子ミステリ。


実際に体験した本人にとっては何事にも不思議な話=奇談

奇談というと僕が思い出すのは「世にも奇妙な物語」です。
世にも奇妙な物語」が面白いように、
その話が起こりえないような展開、謎を持っていれば物語として魅力的であり作品として成立します。


しかし、かの京極堂が言うように「この世には、不思議なことなど何もないのだよ」と
その不思議をロジックで解き明かせば、ミステリになります。


不思議な話で終われば奇談であり、
その謎がロジックで解き明かされれば、ミステリ。


解説にも書かれてありますが
そんな幻想小説とミステリの両方が楽しめるのが本作のすてきなところです。


本作には7編の短編がありますが
個人的に好きなのは「金眼銀眼邪眼」
「夜の子供」という幻想小説らしく、そしてそこからの明かされる結末もとても好みです。


そして最後の「すべては奇談のために」
なぜ彼らは奇談を集めるのか。
それまでの短編が持っていた「いかにも」な雰囲気も伏線にする
結末は秀逸です。

一編一編も短く、読みやすいため多くの人に勧められる一品です。

絶望の国の「インターネット」という希望 〜『希望論』 (NHK出版/宇野常寛, 濱野智史)〜

希望論 2010年代の文化と社会 (NHKブックス)

希望論 2010年代の文化と社会 (NHKブックス)


「絶望の国〜」の次に読むのが『希望論』というのは我ながら実に安直だなぁとは思うのだけれど、
「絶望」の次は希望に目を向けなければ、という高い志(笑)を持って読んだ1冊。


本著は
2人 宇野常寛, 濱野智史の対談形式であり
3章に分かれている。


Ⅰ)「震災」から考える
「でかい一発」であった「震災」、そして「原発」の問題から
今の社会が「理想/虚構」→「拡張現実」の時代への移行したこと
そして復興への希望としていくつか例を挙げながら、ボトムアップからのソーシャルメディアの可能性が語られる。


Ⅱ)「戦後以降」から考える
2章では戦後からの情報社会論の整理した上でいまの日本の状況が示される。
それは他国とは異なる「ガラパゴス化」した日本の情報社会(=インターネット)である。
日本のインターネットは「繋がりの社会性」(コミュニケーション自体を目的とするコミュニケーション形式)を起点とした発展を遂げてきた。


物語ではなく、「大きなゲーム」のなかで、参加者同士をコミュニケーションし、消費しながら生産(創作)していくのが
日本の「ガラパゴス化したインターネット」の特徴。
〈いま、ここ〉を読み替える想像力によって現実を塗り替える
、革命ではなく「ハッキング」=内側からルールを変えていく力がそこにはある。
  
  
Ⅲ)「希望」を考える
  
日本の「ガラパゴス化」したインターネットという希望
そこには流動性の高い離脱容易な自己承認の居場所がある。
断片的な自己承認は容易に得られ、そして幾つもの繋がりから集合知的ルールが生まれる環境がある。
 
 
その希望をいかに政治との繋げていくのか。
空気を読みすぎる日本の政治は最早ポピュリズムにならざるを得ないならインターネットポピュリズムの応用が重要であり、
そして社会運動とインターネット発「繋がりの社会性」を連動させる必要がある。
(その手段としてゲームフィケーションが有効である)

今の社会は主体不在=誰もが小さな父でありシステムでもある社会=「許す」母権社会と言える。
日本にしかない特殊性こそ日本の価値であり、それが日本の希望になる。


といった内容。



まえがきでも書かれているが、本著の著者(特に宇野さん)は
この本を「希望論」とすることに強く抵抗があったようだ。


なぜなら「こんな時代だからあえて希望を――」という前提にあるのは
現在が「希望を語らなければいけない様な絶望的な社会」であることを認めてしまっているからだ。


今は絶望的なのか。


僕には絶望的に思える。
正規雇用の若者は増える一方だし、年金は払ったところでどうやらマイナスになるだし
自分自身がずっと食うだけのお金を得て、働いていけるのか怪しい。


ニュースから見える政治家は素人の僕から見てもあんまりにもひどい。



そんな日本の希望は「ガラパゴス化したインターネット」。
この本が示す希望は「あぁ、すごく良くわかるな」と思うのだ。


いろいろなレベルでそれは実感出来ると思う。
個人レベルでいけば、文中にもあった「断片的な自己承認」。
例えば
ブログでブックマークされたり
TwitterでふぁぼられたりRTされたり
ニコニコ動画でみんなとともに「www」と打ち込んだり。
そうしただけで僕は誰かと繋がれていると思うし、認められている気がする。
(ブログ書く要因もこの要素は大きい)


趣味が合いそうな人がいれば
ブログをRSSで購読し、
Twitterでフォローして@を飛ばしてつながり、
趣味の共同体を作っていける。


もちろん批判されたり、炎上したりすることもあるだろうけれど
インターネットは基本的にやり直しのきく 離脱可能な社会だ。


何かあればそのアカウントを捨ててしまえばいいし
新しい名前でスタートすればいい。
(匿名だったら名前を捨てる必要すらない)


そうしてネットで繋がった人によってたくさんの素晴らしい作品や結果も生み出されている。
「ポポポポーン」の時の「キングさよなライオン」やその派生の作品に僕はすごく感動したし、
初音ミク」にいたっては最早グーグルのCMにまで至っている。


「日本いっちゃてるぜ」的な海外の画像があったと思うだけれど、
イイ意味で日本はぶっ飛んでるインターネット社会なのだと思う。


しかし、その「ガラパゴス化したインターネット」は「政治」とうまく連動出来ておらず
社会を変えていく力には未だなれていない。


上記の承認も食って生きられる環境があってこそ成り立つのであって
文中に示される「ともに非正規雇用の共働き夫婦が子供を育てられる」社会(これにはとても同意する)
にするには政治に連動していく必要がある。


そうした連動として
「虚構キャラクター」を選挙に
社会運動を「繋がりの社会性」と結びつけ、ゲームフィケーションし実行していく
といった構想がこの本では挙げられている。


確かに今の社会を「ガラパゴス化したインターネット」から変えていくには
そうした方法しかないとは思うのだけれども
この『社会運動を「繋がりの社会性」と結びつけ、ゲームフィケーションし実行していく』
というのは中々悪用されそうな気がして怖い。


この本でもその可能性は指摘されていて
「環境設計に対する鋭敏なリテラシーとツッコミ力を社会的に高めていくしかない」
と書かれているのだけど、まだここまでのリテラシーは日本って持てていないんじゃないかと思うのだ。


と思うのは、今日本で一番「繋がりの社会性」と「インターネット」を利用しているのは
グリーやモバゲーなどの「ソーシャルゲーム」だ。
彼らは実に巧みな「ゲーム設計」を行なって、多くの利益を得ている。
それは僕にとって巧妙な手口でお金を搾取されているよう見える。


はてなにもいくつか記事は上がっていて、たくさんお金がつぎ込まれた話だとか
見ると自分もやったら確実に課金してしまうんじゃないかと思う。(と思うので怖くてできない)
逆にハックしてもうける話も見るのだけれど、
そうした話をいくらしたところで実際にゲームにのめり込んでしまっている人たちには
届かないような気がしている。


それはゲームの話であって、社会運動ともなればリテラシーがもっと働くはず
と言われれば、それまでなのかもしれないが、
今のソーシャルゲームの現状を見るとまだまだ上手く連動出来ない気がする。
その辺りの真偽はブームが去って、今後問われる問題だと思う。



本著は作者も書いている通り「いま役に立つこと」はあまり書かれていない。

この本は今の日本社会の「希望」から、「絶望の国」を変えていくことを構想する本だ。
すぐには役に立たないかもしれないが社会を変えていくために、この「希望」は必要不可欠だ。


今の社会に満足出来ず、社会を変えたいあなたにおすすめしたい本。

若者じゃないと幸せじゃない社会 〜『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社/古市憲寿)〜

絶望の国の幸福な若者たち

絶望の国の幸福な若者たち

震災後の日本社会と若者(1) 小熊英二×古市憲寿
http://synodos.livedoor.biz/archives/1883807.html

この本を読むなら↑の記事も抑えておいたほうが絶対に良いと思う。
この記事を踏まえた上で。


これまで語られてきたずっと「若者論」には違和感を感じていて
「んなもん、若者って一括りにして語んな」と僕はずっと思っていた。


若者の◯◯離れとかこの前の成人の日の朝日新聞の尾崎社説とか。


この本は若者からのそんな若者論へのカウンターパンチだと思う。


この本の構成は大きく3つに分かれている。


①語られてきた「若者論」の不毛さ、的外れさ(第1〜2章)


ここではまず上記に挙げたような現在の若者論の不毛さが提示される。
散々これまで語られてきた若者論がいかに繰り返し語られてきたかがまず語られる。
語ってきたおじさんたちを「ぐぬぬ」と言わせる論説。
「今の若者はなぜ幸せなのか=『いま、ここ』を生きているから」


②作者(=若者から見た)現代の若者とその社会(第3〜5章)


「ワールドカップから見るナショナリズム
「デモと愛国」
東日本大震災とボランティア」
この3点から作者は現代の若者を分析する。
ここで見えてくるのは
「社会をよくしようとは思っているけれども、バラバラで連帯出来ない若者」の姿。


③これから社会と若者の行方(第6章)

これからの社会は「絶望的」でだけれども、若者は「幸せ」である。
けれども若者はずっと幸せでいられるのか。この社会は継続していけるのか。
この本の結論部分。


僕と作者は同い年で同じ「若者」として非常に共感出来る内容だった。


僕もなんだかんだ言って「幸せ」だ。
普通に仲間がいて、友達と遊んで、仕事やら大変なことはあるけれども
毎日を楽しんでいる。


けど、自分が若者でなくなってしまった時、僕は幸せだと思えるだろうか。

この本の題名、『絶望の国の幸福な若者達』が示すのは
「絶望の国で幸せでいられるのは若者」であるという事だと思う。


作者は「一億総若者化社会」が来るという。
しかし、僕達はいつまで若者でいられるのだろう。


上記の記事で小熊英二はバッサリこう言っている。

たぶん35歳になってオーバードクターの年限も切れ、学術振興会の助成金も取りそこね、時給800円の職しかなくて親の介護が必要になりはじめたら、「なんとなく幸せ」とは書かないでしょうから。

村上春樹東浩紀が描いた「35歳問題」
「自分が『成し得た事』と『これから成し遂げられるであろう事』」が逆転してしまう35歳。
小熊英二は「未来で評価される人が若者」であり「未来で評価される期間はそんなに長くないんですよ。」と言う。


そして実は若者と言われる20〜30代の死因のトップは「自殺」である。
http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/whitepaper/w-2011/pdf/pdf_honpen/p16-18.pdf


若者じゃなくなってしまった時、僕達は幸せでなくなってしまう絶望の国(=社会)にいるかもしれない。


「いま。ここ。」を大事にすることが出来る「若者」の生活満足度は今後も高止まりし続けると僕も思う。
だけれども、「若者」でいられなくなった時、絶望して自殺する
またはある程度の年齢(≒35歳)まで達すると急激に生活満足度が落ちるようになるのではないか。


綱渡りの幸せを生きる「若者」。



だからこそ、作者が目指すのは「誰もがいつまでも幸せ=若者*1でいられる社会」。
ほぼ同時に出た作者の「上野先生、勝手に死なれちゃ困ります」で語られていたのが
「親の介護と死」という問題、若者でいられなくなるような時を扱っている。

古市 20代の若者が、フリーター的な生き方を30、40代まで続けていくというモデルはありえないと思いますか。

小熊 現状の日本の制度ではありえないですね。あなたがいう「フリーター的な生き方」というのが、「とりあえず幸せ」をずっと続けられるという意味なら。

*2

しかし、残念ながら絶望の国はいつまでも若者でいさせてくれない。
だったら僕達 若者はどうすべきなのだろう??
とりあえず自分が生き抜くにはどうしたら良いかから考えて見ることにしたいと思う。


買ったのは1月半ばで既に第6刷。快調に売れているみたい。
全体にシニカルかつ茶目っ気のある文(特に脚注)なので非常に読みやすいし、
内容のインパクトがあるので多くの人に読まれたらと思う。
特にいまを生きる「若者」に。

なすべきことをなす強さ 〜『白銀の王 黄金の王』(角川文庫/沢村凛)〜

黄金の王 白銀の王 (角川文庫)

黄金の王 白銀の王 (角川文庫)


二人の王 「穭(ひづち)」と「薫衣(くのえ)」は王の座を巡り争いあってきった王家の血筋であり、憎み合って生まれ育たれてきた。
互いの両親が「鳳穐(穭の家系)を殺せ、一人残らず殺せ、根絶やしにしろ」と「旺廈(薫衣の家系)を殺せ、根絶やしにしろ」と遺言を残すように。
幾重もの間、闘いを重ね、互いに殺し、復讐し合ってきたお互いを憎しみ合う「運命」の2人が国「翠(すい)」のために協力しあう道を選択し、
その困難の軌跡の物語。


各所でも絶賛されているように傑作でした。


この物語はファンタジーで、舞台は架空の国ですが、魔法があるわけでも魔物が出てくるわけでもありません。
幾つかの闘い、戦闘シーンはありますが、それもメインではありません。
終始描かれるのは「王としての苦悩」です。


先祖代々互いを呪い続け、周りの人々も憎みあうことを当然と思い、そして個人の想いとしても「殺したい」と思っている二人。
その二人が「なすべきことをなす」=「翠」のために協力しあうこと、それは周囲=社会とも個人の感情とも戦っていくことです。
そして「協力」という選択は最も憎い相手しか知らない真実であり、誰からも評価されません。
理解されない「孤独」の中でその信念貫き通す「王」としての姿が描かれます。


「なすべきことをなす」
本著の中で迪学(じゃくがく)の教えとして出るこの言葉は
まず「なすべきこと」が何なのかを考える必要があります。
「自分が本当に望んでいることはなんなのか」
同じファンタジー小野不由美の「華胥の夢」にもありましたが
掴むは本当に難しいことで、自分自身にも分からないことが多いと思います。
そしてそれを「なさなければならない」。
「志高く」なんていわれていますが、志なんてどれを掲げていいか分からないし掲げたら掲げたで失敗したら目も当てられません。
ただ本当に望むものは「なすべきことをなす」ことをしなければ手に入れることは出来ません。



この物語の終末では2人が周囲とも「殺したい」という感情とも戦って得た「なすべきことをなす」結果の先に
自分達の本当の感情の「答え」に達する描写があります。
この描写故に、この物語は「私情を律し、国のために尽くす素晴らしさ」という安直な結末に至っていません。
その結果についてはぜひとも本著を読んで確かめてください。


これは「憎みあう運命を背負って生まれた王」の物語です。
民族、宗教問題がある地域においてはこうした運命を持って生きている人は多く
そうした人たちにこの本はぜひとも読まれて欲しいと思います。
ただ私たちの大半は「王」ではないですし、憎み合うような運命を背負っていることは稀です。


けれども自分一人だけで生きていることも極めて稀です。
誰か共に生きていく時に私情だけでなく「なすべきことはなんなのか」を考え、そして出た結果を実行していく。
その過程では誰しもこの物語の「王」と同じ存在であり、だからこそこの物語は普遍的で素晴らしいと私は思います。


物語の世界に自分が入りきってしまって、「これは読まずにはいられん、止まらん」となって
久しぶりに夜眠らずに一気読みしてしまう、そんな物語の力を感じられる傑作の一冊です。