絶望の国の「インターネット」という希望 〜『希望論』 (NHK出版/宇野常寛, 濱野智史)〜

希望論 2010年代の文化と社会 (NHKブックス)

希望論 2010年代の文化と社会 (NHKブックス)


「絶望の国〜」の次に読むのが『希望論』というのは我ながら実に安直だなぁとは思うのだけれど、
「絶望」の次は希望に目を向けなければ、という高い志(笑)を持って読んだ1冊。


本著は
2人 宇野常寛, 濱野智史の対談形式であり
3章に分かれている。


Ⅰ)「震災」から考える
「でかい一発」であった「震災」、そして「原発」の問題から
今の社会が「理想/虚構」→「拡張現実」の時代への移行したこと
そして復興への希望としていくつか例を挙げながら、ボトムアップからのソーシャルメディアの可能性が語られる。


Ⅱ)「戦後以降」から考える
2章では戦後からの情報社会論の整理した上でいまの日本の状況が示される。
それは他国とは異なる「ガラパゴス化」した日本の情報社会(=インターネット)である。
日本のインターネットは「繋がりの社会性」(コミュニケーション自体を目的とするコミュニケーション形式)を起点とした発展を遂げてきた。


物語ではなく、「大きなゲーム」のなかで、参加者同士をコミュニケーションし、消費しながら生産(創作)していくのが
日本の「ガラパゴス化したインターネット」の特徴。
〈いま、ここ〉を読み替える想像力によって現実を塗り替える
、革命ではなく「ハッキング」=内側からルールを変えていく力がそこにはある。
  
  
Ⅲ)「希望」を考える
  
日本の「ガラパゴス化」したインターネットという希望
そこには流動性の高い離脱容易な自己承認の居場所がある。
断片的な自己承認は容易に得られ、そして幾つもの繋がりから集合知的ルールが生まれる環境がある。
 
 
その希望をいかに政治との繋げていくのか。
空気を読みすぎる日本の政治は最早ポピュリズムにならざるを得ないならインターネットポピュリズムの応用が重要であり、
そして社会運動とインターネット発「繋がりの社会性」を連動させる必要がある。
(その手段としてゲームフィケーションが有効である)

今の社会は主体不在=誰もが小さな父でありシステムでもある社会=「許す」母権社会と言える。
日本にしかない特殊性こそ日本の価値であり、それが日本の希望になる。


といった内容。



まえがきでも書かれているが、本著の著者(特に宇野さん)は
この本を「希望論」とすることに強く抵抗があったようだ。


なぜなら「こんな時代だからあえて希望を――」という前提にあるのは
現在が「希望を語らなければいけない様な絶望的な社会」であることを認めてしまっているからだ。


今は絶望的なのか。


僕には絶望的に思える。
正規雇用の若者は増える一方だし、年金は払ったところでどうやらマイナスになるだし
自分自身がずっと食うだけのお金を得て、働いていけるのか怪しい。


ニュースから見える政治家は素人の僕から見てもあんまりにもひどい。



そんな日本の希望は「ガラパゴス化したインターネット」。
この本が示す希望は「あぁ、すごく良くわかるな」と思うのだ。


いろいろなレベルでそれは実感出来ると思う。
個人レベルでいけば、文中にもあった「断片的な自己承認」。
例えば
ブログでブックマークされたり
TwitterでふぁぼられたりRTされたり
ニコニコ動画でみんなとともに「www」と打ち込んだり。
そうしただけで僕は誰かと繋がれていると思うし、認められている気がする。
(ブログ書く要因もこの要素は大きい)


趣味が合いそうな人がいれば
ブログをRSSで購読し、
Twitterでフォローして@を飛ばしてつながり、
趣味の共同体を作っていける。


もちろん批判されたり、炎上したりすることもあるだろうけれど
インターネットは基本的にやり直しのきく 離脱可能な社会だ。


何かあればそのアカウントを捨ててしまえばいいし
新しい名前でスタートすればいい。
(匿名だったら名前を捨てる必要すらない)


そうしてネットで繋がった人によってたくさんの素晴らしい作品や結果も生み出されている。
「ポポポポーン」の時の「キングさよなライオン」やその派生の作品に僕はすごく感動したし、
初音ミク」にいたっては最早グーグルのCMにまで至っている。


「日本いっちゃてるぜ」的な海外の画像があったと思うだけれど、
イイ意味で日本はぶっ飛んでるインターネット社会なのだと思う。


しかし、その「ガラパゴス化したインターネット」は「政治」とうまく連動出来ておらず
社会を変えていく力には未だなれていない。


上記の承認も食って生きられる環境があってこそ成り立つのであって
文中に示される「ともに非正規雇用の共働き夫婦が子供を育てられる」社会(これにはとても同意する)
にするには政治に連動していく必要がある。


そうした連動として
「虚構キャラクター」を選挙に
社会運動を「繋がりの社会性」と結びつけ、ゲームフィケーションし実行していく
といった構想がこの本では挙げられている。


確かに今の社会を「ガラパゴス化したインターネット」から変えていくには
そうした方法しかないとは思うのだけれども
この『社会運動を「繋がりの社会性」と結びつけ、ゲームフィケーションし実行していく』
というのは中々悪用されそうな気がして怖い。


この本でもその可能性は指摘されていて
「環境設計に対する鋭敏なリテラシーとツッコミ力を社会的に高めていくしかない」
と書かれているのだけど、まだここまでのリテラシーは日本って持てていないんじゃないかと思うのだ。


と思うのは、今日本で一番「繋がりの社会性」と「インターネット」を利用しているのは
グリーやモバゲーなどの「ソーシャルゲーム」だ。
彼らは実に巧みな「ゲーム設計」を行なって、多くの利益を得ている。
それは僕にとって巧妙な手口でお金を搾取されているよう見える。


はてなにもいくつか記事は上がっていて、たくさんお金がつぎ込まれた話だとか
見ると自分もやったら確実に課金してしまうんじゃないかと思う。(と思うので怖くてできない)
逆にハックしてもうける話も見るのだけれど、
そうした話をいくらしたところで実際にゲームにのめり込んでしまっている人たちには
届かないような気がしている。


それはゲームの話であって、社会運動ともなればリテラシーがもっと働くはず
と言われれば、それまでなのかもしれないが、
今のソーシャルゲームの現状を見るとまだまだ上手く連動出来ない気がする。
その辺りの真偽はブームが去って、今後問われる問題だと思う。



本著は作者も書いている通り「いま役に立つこと」はあまり書かれていない。

この本は今の日本社会の「希望」から、「絶望の国」を変えていくことを構想する本だ。
すぐには役に立たないかもしれないが社会を変えていくために、この「希望」は必要不可欠だ。


今の社会に満足出来ず、社会を変えたいあなたにおすすめしたい本。