「生きにくい」世の中を生きるための補助線 怪異としての小説 4/30 京極夏彦講演会@精華大学

「あやかし(怪異)はいかにして創られるのか ―怪異と文芸のはざま―」レポ


先日4/30 16時半〜 @精華大学 京極先生が講演会をされるということで聞きに行ってきました。



京都の大学だーと自転車で行ってみたら京都の北端で偉い目にあったとかそんな事は個人的事情はさておき、
参加者はだいたい200〜300人
大学の講演会のため、若い人が多かったですが、男女比トントンくらい
かなり広い年齢層の人が参加されていて、京極人気の幅広さを感じてました。



たまたま座った位置が講演会始まる前の京極先生の待機席の隣だったのでたいそう緊張してました。(これがあの噂の手袋かと始終わくわく)



テーマは「あやかし(怪異)はいかにして創られるのか ―怪異と文芸のはざま―」。


講演会全体の感想を先に述べると
京極堂の一人語りをずっと聞いてる感じ」と。
百鬼夜行シリーズの京極堂の語りが楽しめる人なら100%楽しめる内容。


ただあの語りそのままなのですごくまどろっこしい。。。
論旨を丁寧に追っていくので、最終的に結論に至る流れは納得出来るのだけれど
中々着地点にたどり着かないので、話が見えづらい、内容がまとめづらい。
随所に挿入されるエピソードの面白さで人を惹きつけ、伏線が各所に張られて、最終的に結論へ収束していく構成のうまさは流石です。


以下、大筋の構成を簡単に箇条書き形式で中身まとめてみたいと思います。
(細かいエピソードもとても面白いのですが、長くなりすぎるため省略)


-不思議とは何か
「この世の中に不思議なことなどなにもない」
 →科学分からない事はたくさんある
 →しかしそれは「分からないこと」であって「不思議」ではない
→だが、人間は分からないことを不思議に思ってしまう
 起きたことは起こること=人間が認識しなければ不思議はない


-なぜ人は不思議に思いたがるのか
 「不思議」=「誤った認識」
 例)幽霊←現実には存在しない =「怪異」
 けれど「いて欲しい」から幽霊を見る


-言葉の発明
 人間の時間認識≠生物の時間認識
 動物=パターンで認識→経過=物体の変化
  例)忠犬ハチ公 駅に行くのは餌がもらえるから

 
 人間=量として時間をとらえる
  本質的には「いま」しかない
  ないものである「過去」と「未来」を発明し 時間軸を作る
  →「ないもの」をあたかも「ある」ように考える
  そうすることで生きやすく


 人間:デジタル化の獲得
  デジタル=離散した数でとらえる 数量化 細かく切断する(NOT アナログ=連続)
 「言葉」というデジタルを発明し、名前を付けることで物事を明確化
  →存在しないものに名前を付けるないものをあたかもあるように扱うように
  例)生と死
  生を30CMの定規と仮定→死とは終端
  本来は対になるものではない
  but 言葉が出来た故に対にならなくてはならない=生にたいしてのボリュームを死も持たなければいけない
  そうして出来たのが「死後の世界」(ないもの)
 現実(=あるもの)を生きやすくするための補助線として「非現実」(=ないもの)


-怪異と小説
 目に見えないものはない現実ではない→言葉でそのいくつかが「怪異」
  例)幽霊 UMA
 人間の言葉の発明が生んだのが「怪異」


-言葉と現実
 「不立文字」=言葉は何も現実を言い表さない
  現実→人間の頭をとおして 言葉と結びつく
  →言葉は多義的になる
  例)カバを想像する→みんなの「カバ」は違う だがそれはカバ
  
  言葉は常に多義的=100%つたわらない


-小説と作家  言葉は常に多義的=小説100%の誤読
  「そんなつもりで書いたんじゃない」「こういうつもりでかいた」
   →みんな受け取り方はちがう
    例)本当はギャグのつもりなのにみんな泣く


  伝えたいことなんて伝わらない
   →なら、多義的に色んな受け取り方が出来る文章を書くか
  書きたいものはかかない(伝わらないから)
  頼まれたもの(=うれるものby編集者)を書く
  ストーリーなんてどうでもいい 文体 単語にこだわる
   「ストーリーなんて分からなかったけど、すごく面白かった」が最高


  「行間をよむ」 「紙背を読む」→そんなものはない
   小説をよむ→自分の中に自分だけの物語が出来る
         現実にはないものを読む ないものを感じ取る
  その言葉を作り上げる→紙に書き付けるのが作家

  
  言葉という「不思議」→小説は全て「怪異」 「怪談」
   →作り上げる小説家は全員怪しい


-妖怪作家として
 京極自身 ミステリ? 怪談作家?→妖怪小説家名乗る
 ただし本の中に妖怪は出てこない
 

 妖怪=ドーナツの穴
  妖怪を知ろうとすると民族学、歴史、文芸いろいろと知らなければいけない
  but それは妖怪の「周辺」(≠本質)
 妖怪とはドーナツの穴 実際には「ないもの」


 行間や紙背=アナログなもの
 妖怪は説明した途端にデジタル→説明すると逃げていく
 周辺を書くことで読んだ人の中に妖怪を立ち上げる→妖怪作家


-文芸と怪異
 妖怪と言葉には密接な関わり→研究の際には言葉を収集する
 妖怪 現象に名前がつけられる


 例)ほほなで 塗り壁
 起きた現象→名前→幻想→形までも作られる
 逆に「言葉」(ないもの)が「現象」(あるもの)を規定していく
 これは妖怪だけではない
 どんな言葉、小説でも同じ


 文字→言葉→認識
 小説は この世のものではない=あの世のもの を扱う
 →文芸とはこれ全て「怪異」
 物語とは現実の幽霊
  文章になれば幻想が現実を規定
  どこまでが嘘でどこまでが現実なのか 説明できないものを説明する


-小説と現実
 妄想(ないもの)と現実(あるもの)の案分を間違えてはいけない
  現実に怪異を見るよりも小説の中に怪異を見る方が健全


 面白くない小説なんてない
 どんな小説でも面白いと思う人がいるからこの世に出ている(作者/編集者とか)
 面白くない→自分に楽しめるだけの能力がない
  好き嫌いは少ない方がいい→人生楽しめる
 例)シベリア超特急
  面白ささっぱりわからない
  繰り替えし見ていたある時 面白さに気づく


 生きにくい「現実」(あるもの)
 →生きやすくするための補助線が小説=怪談



以下は個人的感想です

まず京極先生が小説の「プロ」であるということ。
「小説なんて誤読しかない」という前提に立ちながらも
「生きるための補助線」=現実を生きやすくするための小説を書くことに腐心している事が伝わってきたように思う。


質疑応答の中で
「なぜ京極先生は小説においてレイアウトにこだわるのですか」
という問いに対して
「読者へのプレゼンテーションであり、それも含めて小説」
といった応答にも、それは現れていたと思う。


そして何よりいささかなりとも本読みとして
「生きるための補助線としての怪異=小説」という考えは非常に同意出来た。
現実を生きるため、豊かに生きるための補助線としての「小説」が何よりもすきなんだと思う。


久しぶりに百鬼夜行シリーズが一から読み直したくなりました。


いやぁ、いい講演会でした。